1月

昨年春にTVが突然壊れてしまい買うつもりはなかったが、夫婦二人の沈黙に絶えきれずとうとう新しく地デジ対応TVを買ってしまった。
お笑い、温泉、食べ物ばかりの番組編成が馬鹿馬鹿しくてもともとニュース番組くらいしか見なかったので、さほど不便は感じなかったが、BSデジタルが地デジになってやっと見れたお陰でテレ東系番組「開運!なんでも鑑定団」「カンブリア宮殿」はいつも楽しみに拝見している。
そしてもう一つその副産物として飲んべえのボクにピッタリなこんなうれしい番組があったとはo(*^▽^*)o

 

ハンチングを被ったナビゲーターの怪しげな男の雰囲気と相まってテーマでかかるピアノ・ブルース、番組中にかかるニューオーリーンズ調の哀愁のあるメロディーといい、知らぬ間に口ずさんでいる今日この頃なのである。
月曜夜9時絶賛放映中!\(^▽^)/




2月

ボクが彼女を知ったのは当時中々70年代のカルチャーシーンから抜け出せずにいた時に、「宝島」という月刊誌に戦中時代のいでたちでポマードべったりの七三分けにした男性と映ったジャケット写真広告が初めてだったと思う。
当時はポスト・パンクでテクノ時代、細野晴臣が主催するYENレーベルのアーティストということが判明したが、その後戸川純&ヤプーズの名になってからどんどん興味の対象としてボクの中で大きくなっていった。
サウンドはシンセを多用した緻密な作りで、やさしく歌っていたと思うと発作で発狂したようにビブラートを震わせクライマックスへと突入する。
パフォーマンスも過激で曲調によりフリフリのメイド風衣装を着ていたかと思うと、ランドセルを担いだ小学生スタイルというような、その分裂気味のヤブレカブレ・スタイルは音楽的にしっかりしている部分と反比例してガッツリと深い脳内まで侵入して来るのだった。
そんなカルト的支持があった彼女もトイレのCMに起用されたり、バブル期を経ていつの間にか自殺未遂や家族の芸能ネタで一線から退いたが、このジャンルを踏襲するのは椎名林檎ただ一人というのはいささか日本人の音楽文化レベルを疑う。癒しの音楽ばかりが持てはやされる昨今、再び活動を再開してくれることを1ファンとして願う。
「人と違うことは美しい」そして、ただの変った女の子(オバサン)でないことを十分にボクは知っている。


 




3月
 一人暮らしボクを始めて丁度住んでいた銀閣寺のアパートの近くに結構大きな本屋さんがあり、その中でひと際輝いていた文化コーナーがあった。昌文社草思社などから出版された本達はボクにとっての知の図書館で、レコードのジャケ買いのごとく出版社名で闇雲に買い漁っていたのだった。
その店内の雑誌コーナーで、夕刊ほどある意表をついた大きなサイズは見るからにサブカル誌で、横尾忠則氏とハッキリ判るイラストで描かれた「ワンダーランド」(後の宝島)という名のその本はまたしても昌文社発行で、日本版「ローリング・ストーン」誌と共にボクの好奇心をそそるには十分だった。
朧げな記憶ではその雑誌の中で、彼女は人生相談のコーナーを持っていたと思う。
世の中の括りはジャズ・シンガーだったが、舞台に立ったり、エッセイを書いたり、DJをしたりという一つの枠にハマらない今で言うマルチ・アーティストのハシリだったそのスタンスは、人は所詮フィルターであり、大切なのは感じる心とそれを具体化しようとする力だということをボクに教えてくれた。
そんな時代、土曜日の深夜に作家の片岡義男氏のパートナーとして彼女はFMラジオの深夜放送に登場した。その大人びた肉声、大人の女の会話は増々ボクの中のカッコイイ東京の大人の女としての妄想に拍車をかけるのだった。

1943年札幌生まれ。職業…主にジャズ・シンガー。缶ピース100本を吸うチェーン・スモーカー。そして現在消息不明。西岡恭蔵の「プカプカ」の主人公だと言われる。

暖かいと思ったら急激な寒さ、そんな中あと何週間もすればそろそろ桜の花の咲く季節、今月奇しくも35年前のバイト仲間OB会が京都で開かれる。毎日朝から花見で仲間と飲み明かしたモラトリアムな時代、彼女の歌を聞きながらそんな時代を思い出していた。




4月
 5、6年前だったか運転中にカーラジオからかかった彼女の個性的な音楽にこれまでに聞いた事のない新しさを感じた。 もちろん速攻でそのデビューCDを買い求めて愛聴盤となっていった。 カバー曲の秀逸なアレンジもさることながら、その自信に満ちあふれた歌声とpf演奏は「どう、私って凄いでしょ」と言わんばかりに強烈なオーラを放っていたのだったが、元来天の邪鬼気質なボクは熱が冷めるのにもそう時間がかかる筈はなく、最近まで随分と彼女から離れていた。 何気に気になって検索をかけると、デビュー・アルバムは真正面なJazzだったが現在彼女は「おとなのCMソングNo.1歌姫」として堂々とこの業界に生き残っていた。 しかし、以前のような気負い、尖った歌声は消え失せ、日常の小さいが確かで深い愛を丁寧に表現する歌手として、知らぬ間に日々お茶の間の隅々にまで流れているのだった。  

この国にとって戦後最大の試練が降りかかっている。





5月
 まだ京都に市電が走っていた頃、市内に住んでいた従姉妹たちが毎年夏休みに海水浴にやって来るのが恒例になっていて、ある年の夏休みも終わりに近づいた頃、初めて反対に僕一人で遊びに行った時のこと。昼間あんなに輝いて楽しかったのに、暗くなってくると見事にそういう楽しい事柄は成りを潜め、いつも見慣れた現実が今夜はないことにハタと気付き、何故か急に胸の奥辺りがキュンとし出して来た。
社宅のベランダに出て遠い我が家にも繋がっている星空を見ながら、幼い僕に襲いかかるこの奇妙な気持ちと戦うには歌と言う武器を口ずさむくらいしか手立てはなかったのだった。

最近TVCMでよくかかるこの曲達は・・・
言うまでもなく初めてのホームシック体験、小さい頃感じた自分の小さな尺度のひとつを思い出させてくれる。

聞き手が変ったのか、作り手の質が落ちたのか後世に残りうる楽曲というのは最近あまり出会うことがないが、こんなことを思い出して改めて人に勇気や希望を与える歌の力を見直した。



 


6月
 「鈴懸の径」をズズカゲノミチと読める人は結構年配の方だろう。鈴木章治とリズムエースが演奏したこの曲はベニー・グッドマン風クラリネットとビブラフォンの絶妙なアンサンブルで当時大ヒットした。
僕の年代ではジャズ・バイブと言えば古くはライオネル・ハンプトン、ミルト・ジャクスンという往年の名手達が有名だが、新しいアプローチを試みて大成功したこの人も忘れてはならない。

ラテン・リズムとジャズを融合し、打楽器としての側面であるバイブの魅力を新たに引き出したのはCal Tjader氏!調べてみるとほとんどのアルバムは持ってます。
以前に付きオペで何年かラテン・ジャズ・バンドでお世話になったことがあるが、構造上バイブの集音は結構難しいのですよ、これが。半袖のシーズンになると途端に出番が多くなります。Cal Tjader,Check it out.


 


7月  

 音楽でハッピーになりたい時、間違いなく気分を柔らかくしてくれる音楽はボクの場合そう数多くはないが、その少ない中の一人がジャズ・バイオリンのステファン・グラッペリだ。
若い頃は、ジャズなのにあの流しのようなサービス精神旺盛で媚を売り過ぎるかのようなスタイルは全く受け付けなかったのだが、年を重ねるにつれ、その叙情的でハート・ウォームな演奏はボクの尖った魂を優しく揺さぶらせるようになっていった。
その彼の盟友としてジプシー出身であるこの人は初期のスイング・ギターの創始者として音楽の数々の名演を残すことになる。 事故で人差し指と中指しか動かないというハンディキャップにも負けずにその華麗なビブラートやジャズ・ギターの即興演奏はほぼ確立された。
彼の影響は後に故・レス・ポール氏やジェフ・ベックの奏法の中に現在でも脈々と生き続けていることを見る事が出来る。 残念ながら1953年に43才の若さで脳出血で亡くなってしまうが、古いレコード盤が針とが擦れるあの中のクラシックな音楽は今もボクをウキウキさせてくれるせてくれるのだ。

 


8月  

 まるで空気の無い無重力空間で鳴っているかのような錯覚を思い起させる彼のサウンドは時間の流れ方を変えてしまう不思議なバイブレーションがあった。 残響を全く付けない流れ星のような808スネアの連打、時空をワープするようなグリッサンド、それにディレイエコーを多用した万華鏡のようなフレーズがくっついてどこまでも続く終わりの無いような唯一無二な音楽世界がそこに生まれた。本人もディレイは記憶が薄れていく感覚に似ているとどこかインタビューで言っていたような・・・。 非常に限られた音色でこれをEasy VisionとほぼSC88pro音源だけで作っていると聞いたときは更に驚いた。チケットを買っていたのに前日夏風邪で足腰が立たず行けなかった向井修徳との大阪ジョイントライブ、とうとう実物を目にする事もなく永遠にボクの中で伝説と人物なってしまったこの人は、 広島出身、京都在住のエレクトロニカ・アーティスト、レイ・ハラカミ。先月脳出血により急逝した。享年40才。。

 


9月  

ジャズTptと言えばマイルズ・デイヴィス、近い所ではウィントン・マルサリスなどがオーディナリー・ピープルでは一般的なのだろう。
この人の存在は外国籍の友人から7、8年前にとあるJazz Fesのウェブサイトで鳴っている曲から教えてもらった。
名門バンド、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズに加入後、自身のクインテットで独立、以後スパイク・リー監督の『マルコムX』から映画音楽などにも範囲を広げ、ストリート・ミュージックにも垣根を越えた音楽性を発揮する。
ブルーノート・レーベルに移籍後、20年代から50年代にかけて活躍した作曲家、サニー・サイド・オブ・ストリートの作曲者ジミー・マクヒューが残した名曲をカサンドラ・ウィルソン、ダイアン・リーブスやダイアナ・クラールの力を借りて焼き直した歌ものアルバム『Lets Get Lost』、ボクのお気に入り得意のリズム・リフを使ったFootprintsの入った『Bounce』、映画の名曲をカヴァーした『Jazz In Film』,同じニューオーリンズ生まれで一足早く世に出たウィントン・マルサリスと比較されることが多いが、正確無比、優等生タイプのウィントンほど名が知られていないものの、共通するバックボーンに加え、緩急の技を駆使したリリカルで知的な演奏はボクを魅了し続けている。

今年も当たり前の夏が終わって、当たり前の幸せがあることを彼の音楽を聞きながら感謝する。




 


10月

当たり前だがインターネットもなかった当時のちょっとトッッポイ(カッコイイ)お兄さん達は平凡パンチという名の男性週刊誌を読み耽り、メンズクラブという男性服飾雑誌を購読し、その誌面の中で世界の若者の最新情報を確実に得ていたと思う。 戦後の黒船音楽文化である進駐軍ジャズ、カントリー、ハワイアンについで経済力が徐々について来たこの国にはコークと一緒に新たにリアルタイムでアメリカ文化が入って来たのだった。それまで席巻していた日本的な歌謡曲なるものと平行してこの手の音楽は大学へ行く余裕のある比較的富裕な層の若モノから徐々に広がり今風カッコイイを探していた若者達の心をしっかりと捕えた。 透き通ったこの人はボクが最初に憧れた長い黒髪の女性シンガー、幼いボクに歌の意味は良くわからないが、それまでの何かに反抗して自由にやっているということは十分感じたこの人、3人でやっているとは思えない見事なアンサンブルを聞かせてくれたこの人達。 当時ませた小学生だったボクにギターを弾きたいと奮い立たせたモダン・フォークと呼ばれたこの人達の影響はかなりあるということを今はんなりと感じている。

 



2013 Winter

この世に生を受けて60年近くにもなると若い頃には想像だに出来なかったことも現実になることがある。洋楽を聞くようになって日本の音楽はダサイと歌謡っぽい音楽を意識して排除していた20〜30代の頃。「最初から黒人に生まれて来たら求める物はもっと簡単に手に入るのになあ?」とか考えたりもした。

そして色んな国の人と知り合うようになってから、こういう発想をする自分って何から影響されてどういう風に出来ているんだろうとその源流を辿って考え始めて、より日本的なものに興味を持つようになって来た。そう、自分の立ち位置(分母)の確立がない限り後から付いてくるモノにはリアリティがないのだ。

小学生の頃、ウチの前の兄ちゃんが聞いていたこの人達の魂の歌もここ最近無理無く聞けるようになった。Folk Rock Blues Classic EnkaもBorderless、すべては拡張するのみ、必要なのはOpen Mind、柔らかな脳内Filterだけだ!


 


HOME