1月

はじめて人前で歌って演奏した歌はこの人たちの曲で、ボクたちの中学校では音楽の先生のお墨付きを貰えば個人で発表出来る枠があり、文化祭史上初めて4人組のフォークバンドでこの曲を発表したのだった。
彼らの曲は最初に話題になった曲がコミックソング扱いされたため、その深い部分での音楽的アイデアは一般には気づかれなかったが、当時のレコード制作はレ コード会社が主役で歌手やバンドは歌うだけ、伴奏者はスタジオミュージシャンに任せる、作家は作家という分業が当たり前だったが、その常識を見事に打ち破 り、元祖シンガーソングライター、アーティストが自分の望むまま制作を行うセルフ・プロデュースという自己実現の形式を初めて日本のポップス界に持ち込ん だ功績は大きいと言える。
叙情的な一連の音楽制作は後の「イムジン川」「悲しくてやりきれない」「青年は荒野をめざす」といった名曲を生み1年間という短い活動で惜しまれて解散することになる。


メンバーの中心的存在であったこの人は世の中の流行にすこぶる敏感な人で、音楽はモチロンのことファッション、料理とその造詣の深さとともに若者文化をリードしていった。
「家をつくるなら」「あの素晴らしい愛をもう一度」とソロになって絶頂期を迎えたが、初物食い的かぶれの才能で時代とともに渡り歩いて行った彼への興味もグラムロックに影響を受けたミカバンド以来全く聞かなくなってしまった。
この時期英国から初めて日本へPA装置を買って帰り、日本発の本格PA会社ギンガムを設立させたことはあまり知られていないようだ。
ボクの中ではフォークル時代のあの頃のフォーキーな曲と斬新なアイデアがすべてであり、若い頃の語録には「同じことは二度としない」と豪語していた彼も、 海外旅行も容易となり世界のあらゆる情報が誰でも簡単に手に入り世界が狭くなっていくに連れ、彼のような存在は世の流れの速さに自分を見失い、伝説化され ていた音楽界ではレガシー的な位置付けをされ段々居づらくなっていったと推測する。
今日、世界中のあらゆる国がファーストフードとアメリカンな文化に席巻されている。しかし自分のルーツを失ったらどこで生まれて生活しても帰る所、地域 性、誇りというモノがなくなることではなかろうか?さきほどまで紅白を久しぶりに最初から見ているが、今更ながらアメリカナイズされたヒップホップ音楽文 化にはいささかヘキヘキとする。二番煎じはもうToo Match、今や世界中グローバル化は避けられないご時世だが、商業行為と文化破壊の関係を皆もっと考えていただきたい。文明は容易く受け身で享受出来る が、文化はファイトしないと手に入らない。分母に同じくらい自国の文化に目を向け、地域愛を大事にしその魂を宿した人達が多くなることを切に望む。自主独 立、そんなことを大晦日の夜にふと思った。
新春に隠れた名曲、この人達の「日本のくらし」と小椋圭「美しい暮らし」の詩をここへ立ち寄った方に送りたい。


      ご冥福をお祈りします。合掌

 


2月

昔は田舎に住んでいるということは、マイナーな情報を収集することが難しいとハッキリ言えた。 特に今日のように1クリックで欲しいCD、書籍が手に入るというようなことは夢物語だったのだ。
ジャズを本格的に興味を持ったのは親元を離れ当時片手間でやっていた箱バンのレパートリーにジャズのスタンダードソングが多かったのでその原曲を知るためにとりあえずしらみつぶしにレコード屋を徘徊していた時期と重なる。 当時完全ロック少年だったボクにはジャズの体系が全く判らなくて、古本屋でナベサダのジャズ理論書やジャズ月刊誌の定番スイングジャーナルを10年分くらい買い漁ったりもした。 のプレイとの出会いは多分その中でSatin Dollを探していた時だったと思う。

ウーワーと奇声を発してそのルーズなタイム感でピアノを叩くこのピアニストは、それまでカセットで聞いていたオスカー・ピータンソンの正確無比な優等生テクニックとは全く対照的であった。ボク的に言えばジャズのピアニストで重要なのはツーファイブバップ理論を理解し、なおかつバリエーション豊かに演奏出来るかということにかかると言える。 アフロキューバンのこの曲Un Poco Locoなどは後のChick Coreaの演奏スタイルを連想させる。

神がかっている初期は凄いがそれより麻薬に蝕まれて来た中期〜後期の枯れ具合がいい。一般のお茶の間に登場したのは村上龍の番組「Ryu's Bar」のオープニング曲だったことを思い出した。  

 


3月

エルビスが自信の登場テーマに使っている「ツァラトストラはかく語りき」のこのアレンジをFMかなんかで聞いたのが最初 の出会いだったと思う。 アレンジャーという肩書きで音楽業界に突如現れたこ の人は、初期の地味なジャケットとは裏腹にその当時巷を席巻しつつあったフージョンブームの追い風を受けてその後増々ビッグになって行くことに なった。 当時所属していたバンドでも「Carly and Carole」「Baubles, Bangles and Beads」をレパートリーにしていて、バンマスが持っていたデビューアルバム「Prelude」を聞かせてもらい何だか判らないけど聞き易くて新しいな あと感じた。 元々ピアニストでもある彼はブラジル人であるということも影響してかロー ズピアノの黒っぽいファンキーな演奏の中にもパーカッシブで独特な南米感が醸し出されていて、一言文字でいえばディスコ・ビートにラテンっぽい要 素とファンキーでジャズっぽい要素をかけ算し、最後にシロップを入れ口当たりを良くしたカクテルのようなモノと言えるだろうか。 現在のジャンルで括ればスムースジャズというジャンルなんだろうが、売れ線狙いのため必ずクラシックの名曲をアレンジしたり、当時のヒット曲を選曲に入れ るというのは所属のCTI レーベルの戦略で、ロン・カーター、スタンリー・クラーク、ジョン・トロペイ、ビリー・コブハムなど名だたるフージョンJazzプレーヤーが演奏 していたこの一連のアルバムでファンキーなギターリフの作り方、1コードでどういう風に展開して行けばいいとかアドリブプレイの面では相当影響された。 中でもツェッペリンの「Black Dog」の入った1975年発表の「First Cuckoo」は全曲はずれ無しのアルバムで、当時モ ラトリアムなバンドマン生活と、マージャンに明け暮れていたボクの遠い青春時代にしっかりBGMとして焼き付いている。

     

            

4月

戦後10年目にボクが生まれた日本はちょうど復興を目指し高度経済成長に突っ走る黎明期で、少しばかり生活にも余裕が出来、庶民の夢や希望が叶えられるようになり、この頃生まれた数々の新しい文化によって、僕らの感受性は更に敏感に育まれていった。 最近気付いたことで概ね昔の人は良く歌の歌詞を覚えていらっしゃることが多い。これは歌や音楽はラジオが中心媒体だったために、好きになれば何回も聞いて口ずさみ覚えていかざる得なかったからだと思わられる。
いつの頃からか世の中スピード時代と言われるようになり、流行音楽は短期間で入れ替わり消費され、カラオケではさほど知らない曲でも画面を見て歌え、歌や音楽に対する思い入れは増々稀薄となっているようだ。
日頃から正しく年を取るということはボク的には正も負も受け入れ吸収させ拡張していくことであると疑わないのだが、結構なお年のご婦人方でも夢中になるジャニーズ系や韓流スター達への熱い視線もアイデンティティの喪失に危うい危険性を感じる。まるで古いものを許容すると自分までオールドファッションな人間だと思われることに拒絶反応をしているようで、どの方にも幼少の頃や青春時代に体験したモノは、好むと好まざるにかかわらずタバコの副流煙のように自然と自分史の中に入っている筈であり、そこを都合よくバイパスして、きれいなモノ美しく新しいモノだけの方に向く軽い観念はどうにも理解しにくいのだ。
この真逆で男性は一時期に沢山聞いた年代の世界に固執している方が多いのも男女の文化人類学見地から見ると面白い。
いずれにせよ、好きな理由、嫌いな理由がちゃんと語られる人が多くなるまでこの国の文化政治的発展は望めそうも無いようだ。
先月は自分の音楽史の中に抜けているミッシングリンクを探し唱歌、昭和歌謡の歴史盤を大量に聞いた。
国内レコード・メーカー12社の協力により制作された、青春歌年鑑と名付けられたこのシリーズ、戦後の復興から高度経済成長期に国民の中にしっかり根を下ろした珠玉の名曲たちを堪能している。 大事にしたい歌が沢山ある。
Charlie Parker と近江敏郎と椎名林檎が共存する世界、思っても楽しいではないか。


5月

いつもスーツに帽子をかぶり、にやりともせずに煙草をくわえ、口髭をたくわえた混じりけの無い真っ黒い肌から あの眼光鋭い目で見つめられると普通の人はたいてい相当な威圧感を感じることだろう。
その風貌から推し量れる人間像や、独特な世界観は当然作る音楽にも良く現れていて、エキセントリックなメロディや、半音でわざとぶ つけた不協和音の響きは聞く人を緊張を強いさせ、「俺の曲は誰のものとも違うぞ」とその唯一無二な彼の頑固で偏屈な思考の一面をあぶりだしてくれる。
ソリストとしては特別技巧的に優れているわけでもないが、独創的な彼の曲を自信があのたどたどしい演奏で弾くと何倍も濃いエッセンスが滲み出て、やっぱり誰をも寄せ付けない圧倒的な存在感を感じることが出来る。
後で知ったことだがあの時代に白人の妻を持ち、かなり重度の精神疾患持ちだったらしい。 地下にあるジャズ喫茶で頑固そうな店主の煎れた濃いコーヒーをすすり、JBLのスピーカーから流れる彼のピアノを聞く。絵に描いたような一般的なジャズの風景が目に浮かぶ。
そんなことをのドキュメンタリー映像を見ながら思っていた。

 

6月

敗戦により敵国文化ということで長らく禁じられていた数々の横文字の事柄が、ある日突然それまでの理不尽な軍国主義的思想に変って一夜にして書き換えられた。 統治国の圧倒的な物量とその合理的な精神は自由と平等を謳う基本精神のもとに我々国民一人一人に自由を選べる権利や、自己責任において自身の人生に無限の可能性を与えてくれたのだ。
民主主義とともにやって来たチューインガムやチョコレート、コーヒーといったモノから、ラジオ放送から流れるそれまで聞いたことのない明るくモダンな音楽、映画館に行けば国威発揚のプロパガンダではないハンサムな男優と絶世の美女達との淡いラブロマンス・ストーリーがスクリーン一杯に繰り広げられていた。そしてそのスクリーンに映る世界は決して夢物語などではなく、新しい日本を作るため現実のものとして彼等の生きる希望の印の一つになっていった。
衣も食も住もないないづくしの戦時下の中、まずはお国のためと、何でもかんでも我慢を強いられ抑圧されて来た若い人達がこれらに熱狂し、自由と平和を実感したのは容易に想像出来る。
封建的な日本社会に於いて
女性の存在意義は結婚という慣習に長年縛られており、結婚とは概ね男性に依存した運命共同体のような体系であったが、戦後高等教育を受けることが出来た女性達の社会進出によりこれまでのこの国の慣習や、女性の地位、文化水準を少しずつ変容させる原動力にもなった。
自由と平等をこの国に定着させるには女性にとっての高等教育、社会進出はなくてはならないものだった訳である。
先見の明のあった曾お婆さんは、「女はいつ捨てられるか判らない、これからの社会で女性が自由に生きて行くには教育や資格取得が必要だ」という先駆的考えで早くから娘達を師範学校に入れたそうである。
職業婦人の先駆けとして昭和〜平成を生き抜いた、
その一人の女はその後結婚し子供を二人授かり、戦時下に幼子を連れ東京空襲から命からがら連れ合いの郷であるこの慣れない京都は丹後の地に疎開して来た。それから60年あまり、いろんな人々に出会い、支えられ、愛され、長年住まった我が家で愛すべき孫達、子供達家族全員に看取られながら94才でこの世を旅立った。
そんな義理の母が生前に目をキラキラさせながら熱くボクに話してくれていた映画の話をテーマ音楽と共に思い出しながら聞いていた。

そして最後のお別れにこの曲を捧げる。

7月 

 オクターブのリズミックなギターリフ、その上にシンコペーション・リズムが彩りを添え、ファンキーなベースが合間を縫うようにグルーブを結び付けシンプルで力強いサビのパートへと誘う。当時この曲の特別なしかけに反応した人はどろ程いただろうか?今にしてみると60年代では斬新なアレンジだった。それからボクの前に現れたのはネズミと少年のホラー映画というおどろおどろしい内容とは裏腹な主題歌のバラード曲「ベンのテー マ」だった。
見た目評価で影響されやすいボクなので、その受けた感動とは別のベクトルが彼を長い間遠ざけていたが、 クインシー・ジョーンズと組んでソングライターとしての才能を開花させた「オフ・ザ・ウォール」「スリラー」などで彼の人気は不動のモノとなって行くことになった。
80年当時のボクはポップソングにはあまり興味がなかったが、アルバムのどの曲をシングルに切ってもおかしくない完成度の高さ、 そして否応なしに街のアチコチから聞こえてくる彼のヒットソングの数々には正直脱帽した。
20〜21世紀のスーパーエンターティナーの第一人者であり、キング・オブ・ポップという異名を欲しいままにした彼も、ご存知のよ うに私生活ではすべてに優しい性格が災いして寂しい終え方だったが、ブラック・ミュージックの間口を広げ、白人文化には絶対に真似出来ない歌とダンスで世界中の人々に蒔いた種が少しでも多く花咲くことを願わずにはいられない。

 

 


8月 

 以前にも書いたことがあったがこの人のイメージは夏、それも暑い夏でアスファルト都市の昼間に冷房の良く効いた薄暗いジャズ喫茶で聞くイメージがボクのこの人像なのである。フォーク、ロックとその時代を象徴する音楽を体験し、渡り歩いて来て一人暮らしを始めた時からジャズの嵐は都会の生活にシンクロしてボクの隙間を埋めるようにやって来た。しかし生来の天の邪鬼なゆえこの国で人気の高いMilesさんやB・Evansなどはほとんど意識して聞かなかった。
この人も最初はウェザーリポートのホーンの人位しか知識がなかったが、京阪沿線に済んでいたフリージャズ好きの友人が何気に勧めてくれた「SuperNova」が彼の奥深い音楽の本質を知ってからは急激に過去のアルバムを聞くきっかけとなって行くことになり、Jazzで初めて聞いたソプラノ・サックスの音色はボクをしばらく虜にしたのだった。
まず初心者は判りやすい所から60年代BlueNote 時代の「Night Dreamer」、「Speak No Evil」、ちょっと慣れて来たら「Moto Grosso Feio」、「Adam’s Apple」の真っ黒魔術系、Columbiaに移籍後グっとイメージは代わり楽園志向の「Native Dancer」そして最近の「Footprints Live!」、「Alegria」なんかはいかがでしょうか。
御年77才のこの脅威のおじいさんはまだまだ活躍中。




9月 

 当時東京から兄貴が持って帰ってきたレコードの中にその不思議な響きを奏でるはいた。ゆったりとしたラテンパーカッションとドラムのコンビネーション、女性を中心とした男性とのユニゾンボーカル、リズミックでシンコペートしたジャズ風なピアノ演奏で繰り広げられるその響きと歌の数々は有名ヒット曲のカヴァーも沢山入っていたこともあり、好奇心旺盛な中学生の少年の心を一発で虜にした。この都会的でゆるい響きがメジャーセブンコードだと知ったのはずっと後で、それまで発刊されたギター教則本ではまったく知ることはなかったが、何故か平凡パンチ増刊の付録の歌本だけにはしっかり書かれてあり、Cコードの人差し指を離しただけの不思議なその響きはギターを弾きはじめ出したボクのお気に入りコードなるにはそう時間はかからなかった。このサウンドが邦楽に多様され出したのはそれから間もなくで、60年代後半から歌謡曲ぽくない洋楽っぽい国産曲を産み出す原動力にもなり、その後たびたび毎年来日公演を果たした彼らは、新らし物好きの間でファンを増やし続けボサノヴァブームの火付け役として一気に浸透していったのだった。

    

               
               


10月 

古くはギリシャ、宗教的色彩の強いヨーロッパ大陸に端を発するイオニアン音楽と打楽器を手段としこれまた呪術を媒介にしてアフリカから誕生したこの相反する二つの文化はアメリカ大陸で融合した。
もし、奴隷として黒人達がこの大陸に入って来なかったら、全世界のポップス・ロックシーンの発展はうんと遅れていただろう。
綿花栽培に強制的に従事させられ、何の権利も与えられなかったこの人達の楽しみは、やがて皆で集まった折日常の不満を発散する単純な労働歌からその場でのコール&レスポンスという独自の一体感を共有しつつ徐々に黒人文化として発展していったのだった。
色んなポップスのベースでもあるブルース・ペンタトニックの音に魅せられる人が多いのは、がんじがらめになった日常から自由を求める気持ちが人間にはいつもあるからかも知れない。
マーティン・スコセッシ監督の撮ったThe Bluesをすべて見て、この種は伝統音楽文化として絶対に残さねばならないと思った。

 

 

               
               


11月 

確か10代のときフランス映画を映画館で見ていて初めて聞いたと思うこのグループは元祖アカペラ・グループなのである。
元々アメリカ人のSwingleさん以外全員フランス人で男女半々の8人構成で結成され、その中の一人にはミッシェル・ルグランのお姉さんも参加していた。1963年のデビュー・アルバムはバッハのミサ曲をジャズのスキャットを用いてバロック音楽を高速で再現してしまうというそのアイデアと完璧に歌いこなす実力には唖然とさせられた。
オリジナルメンバーはさすがに現役ではないが、その後意志を継いで若いメンバー若いメンバー達が現在でもコーラス・グループとして今でもロンドンを本拠地に世界中ツアーを行っているようだ。
そろそろジングルベルの鳴る季節、X’mas盤を娘に送ってやることにしよう。

 

 

 

 

               
               


 


 

 

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