1月
 いや〜っ、光陰矢の如しとはよく言ったもので最近の一年の過ぎ方は想像を遥かに超えたスピードで過ぎて行きますね。世の中は不況だなんだかんだと言っているようですが、当社はバブル時も今もそんなに過ごし難いとは感じないところが恐ろしいところです。つまりずっと貧乏だったと言うべきなんでしょうね。利益が上がってもプライオリティは仕事関係優先で、機材一番でずっとやって来たのですが、それが2000年に入ってからちょっと見方が変わって来たのでした。楽しい筈だった仕事が借金のために嫌なことまでしなくてはならない現実、今まで脇目も振らずに続けて来たことへの数々の疑問、得るものと失うモノとのバランス、あらゆるコト、モノへの自分との距離感、これからの自分自身の人生の耐用年数を考えた時その行動は始まりました。人の生は永久に続く訳ではないし、これまで絵に描いたように自己実現出来た自分の人生に対して、本当に自分は何を求めていたのか?ということに疑問を持ち少々不安になってしまったのです。少ないながらも欲しいモノは概ね手に入れた、しかしそれを維持するための連続したストレス、そしてこれ以上もっと自分は良い仕事が出来るのだろうか?そう思った時から心の中のその小さな戦争は確実に始まったのでした。
いくつかの葛藤を経て年を取ると中々実感出来ない充実感を見つけました。やり続ければ割と早くに目に見える結果。つまり筋肉トレーニング、フィジカルなトレーニングに目覚めたのです。これは本当に良い。無くなっていたものが再生して行く様を見ていると日々の地道な努力はやっぱり大切なんだと思い知らされました。もっとも毎日やっていても毎回辛い訳ですが・・・。そんなこんなで今年も転がる石モードで疾走すべくオヤジは走り続けます。

アクセス歴を見ると有り難いことに今でも毎日HPを訪れる方は日に5〜15人、Blgは40〜60人とこんなオヤジでも世の中に少しは気になる人がいるということに改めて感激する今日この頃。ということで相変わらず今年も派手な更新は少ないでしょうが、皆さん本年もどうぞよろしくお願いいたします。

08年12月分のコラム、年末のどさくさによりローストしてしまいました。注意一秒、怪我一生!


2月

その日12月8日は家にいてそのころ生業としていた音楽教室で高校生の生徒さんにギターを教えていたと記憶している。夕方の臨時ニュースで何回も「スタンド・バイ・ミー」の映像が流れる度にこんなことは起きる筈はないと自分に念じながらも、次第に大きくアナウンスされているその事実にボクは蒼然として、自分ではさほど影響は受けてはいないと思ったが、その人物が地球上から居なくなったという事実に後から後から悲しみとその喪失感が徐々に増して行った。
ビートルズに影響を受けていない音楽愛好家を探すのはそう容易なことではないが、丁度リアルタイムに彼等の映画も音楽を聞いて見ていたボクもご多分に漏れずに「ラブ・ミー・ドゥ」「抱きしめたい」〜「プリーズ・プリーズ・ミー」等のドーナッツ盤を兄貴の居ぬ間に擦り切れるほど聞き熱狂していた。
大きくなっても相変わらずお小遣いの少なかった中高生のボクには10曲以上入っているLPレコードなどはそう簡単に買える余裕はなく、ひたすらシングル盤とEP盤と呼ばれた4曲位入っているシングル盤サイズのお手軽レコードを買って、そこからLPに入っている他の曲に想いを馳せるのが関の山だったが、高校になり羽振りの良い同級生達が沢山レコードを持っていたりしていて、ここぞとばかりに借りまくってカセットに録音させてもらっていた。
丁度ちょっと前にビートルズは解散し、個人の活動が盛んになった頃でその時期に4人のソロ名義の楽曲を聞いたが、元々音楽的には洗練されたポールの曲よりもジョンの作るどこかフリーキーな楽曲に惹かれていた。ジョンは自分の声があまり好きでなかったみたいで、あのプレスリー張りのエコー・タイムには少々うんざりした。そしてビックリしたことはオリジナル曲以外は結構ロックンロール色が強かったり、やっぱりバンドという括りの中で互いに葛藤することによって自分の思う以上のモノが出来上がるんだなと気付かされた。
こんな企画モノが世に出るとはついぞ思わなかったが、ビートルズの「アンソロジー2」はアウトテイクやライヴ音源から未発表のデモを納めたマニアックな作品集で、ライブ演奏活動を止めスタジオでのクリエイティブな活動へと移行しようとしている彼等の心の経過を音によって教えてくれている。

類い稀な4つの才能が集まったこの人達には、名前を叫んでばかりで誰も演奏を聞いていないコンサートの熱狂よりも、自分たちのイマジネーションを永遠に閉じ込め、よりベストな形で作り出すのはスタジオワークしかないと気付かせた頃の時代の証、エレキギターの歪んだ音とシャウトする歌、何物にも束縛されずに思いついたことを好きにやればいい、単純だがロケンロールのその神髄を教えてくれたこの人のベスト盤「Lennon」を1月は良く聞いていた。

 


3月

 20代を少し超え一人住まいをし始めた頃、スイングジャーナルというジャズの月刊誌を近くの古本屋で買い集めたことがあった。そこには甘いマスクで西海岸風のトラッドで決めた映画俳優(実際映画出演もしていた)になってもおかしくないような人が、斜め下からのアングルでトランペットを持って映っていた。これが初めて見た彼の画像だと思う。後年になって今にも倒れそうな位力のない声で歌っているこの声持ち主とあのトランペッターと同一人物だとは長らく一致しなかった。トランペットと言えば大半の日本人はマイルス・デイヴィスを思い浮かべるのだろうが、同じクールさでも何故かボクには長いことこの人のメローだが何か陰湿で暗い音楽性はシックリと来なかったものだ。50年代の頃のジャズ・マンは大抵一度は麻薬の洗礼を受けていたと思うが、妻子ある身であるにもかかわらず女性問題を度々繰り返し、何回も麻薬で警察沙汰になりお世話になった彼の半生は直接的ではないにせよ、その優柔不断な性格とドラッグ依存が大きく関係しているようだ。先月見たセミ・ドキュメンタリーのこのDVDはそんなの光と闇の私生活をかなり隅々まで網羅していた。

Let’s Get Lost! 

すべてを失う、まさにこの人の人生を一言でたとえたような意味深なタイトルだ。愚か者、一言で言えばそうだがその危なっかしい人間臭さ、羽根がもげてどこまでも落ちて行くような脱落感が一瞬(ひととき)ではあるが必至にポジティブに開花しようとする時、ボクに何か特別なカタルシスを感じさせているようだ。

先月は沢山チェットを聞いた。

 "It was so beautiful, all those things. It was a dream, you know. Things like that don't happen, just to very few."(chet baker)

4月

 Ludwigのバスドラに書かれた見慣れたロゴ、大昔見た映像がメンバーを鮮明に寄りから引きの映像で映し出した。BeatlesのDVDAnthologyはTVシリーズとして放映されたドキュメンタリーから出来た企画らしいが、初期の未公開映像を含め各時代を全11時間分8つのインデックスに分けて録音秘話、側近、関係者の証言、各メンバーへの回想インタビューと盛りだくさんな構成で編集されていた。
一つずっと疑問を持っていることがあり、デモっぽい最初の地味なプチヒットLove me do から急にあか抜けた初期の歴史的な曲please please me~ I wanna hold your hand〜she loves you〜a Hard days nightへとドラスティックに変化した音楽的変遷がボクにはどうしてもハッキリ掴めないのだ。もちろん本人達の類い稀なる才能もあるのだが、これ以後セオリーや従来の常識を無視し録音技術の進歩と共にギターならではのサウンドを生かしたビートルズっぽいと言える音楽は確率されて行く。これは演奏家としてpfも弾けるプロデューサーのジョージ・マーティン氏や第三者的客観的判断を下すマネージャーのエプスタイン氏らが少なからず何らかの影響を与えたと思っている。そのマネージャーのエプスタイン氏が亡くなって以降、彼等の音楽や行動は凧の糸が切れたみたいバラバラになり、色んなビジネスに投資しては失敗、グループ内での主権争いの激化、しまいにはグループ解散へと一直線に突き進む。
初めて聞いたオモチャみたいなモノラルポータブル・プレーヤー、次に聞いた兄貴の自作ステレオ、TV生放送で見た武道館公演、一人暮らしをし始めて聞いたFM放送の中、そしてまた、何十年も年月が経ち自分で買ったステレオ装置で聞く彼等の音楽、映像や音がデジタル処理で素晴らしくきれいになっても、それはどれもボクに「自分を信じな、気にすることはない、好きなことやればいいさ」と説いてくれた変らぬ同じビートルズなのだ。

5月

 音楽人生の中で2つだけ理解しようとイロイロと聞いてチャレンジしてみたが、やっぱり最後まで溶け込めなかった音楽ジャンルがある。一つはヒップホップ系のラップ、この音楽? ジェロでおなじみ独特の斜めキャップ被りとブカブカ・ファッションも相当ダメだった。そしてもう一つはシンセを多用した テクノ・ポップ だった。
この グループ の全身である「 はっぴいえんど 」は日本語をロックにのせた先駆者としても、新しもの好きのボクにとって70年代ウェストコーストの時代の流れとピッタリフィットしたが、ロックが巨大ビジネスとなり、社会的思想とも連動しないこの金あまり現象的なピコピコ音楽形態には当時どうしても違和感をおぼえ感覚的にピンとこなかった。
それでも YMO がハブとなって出て来た桑原茂一、伊武雅刀、小林克也のスネークマン・ショーなどのはずいぶん楽しませてもらったが、最近 この人 DVD に付いていたブックレットの中に有名プレイヤーの分析があって、その客観的で正確な格付け評論に驚いた。とにかくあらゆるモノを沢山、そして深く音楽を聞いた知識の中から生まれてくるその洞察力には、やはりあの時 YMO 結成が必然であったようになるほどと唸らせる理論構築があるのだった。
50代まではエッジの効いた音楽をやっていた彼も、最近は段々と人間対人間のゆるいバンド形式が多くなって来ているように思う。
御年 60 で還暦のこの好奇心旺盛なおじいさんからはまだまだ目が離せない
 

6月

現実とは恐ろしいもので、70年代〜80年代の学齢期に地方の田舎町で育ったボクとしては雑誌や TV でしか見たことや聞いたことがなかったものが実際に目の前に現れ、都会の圧倒的な物の豊富さとエキサイティングなモノそれを享受出来る環境にある以上それらに浸る生活に入るにはそんなに時間はかからなかった。当時外人バンドで演奏活動を初めていた 19 才のボクにもその情報と経験は大量にやって来た。

丁度時期的にはウェストコースト系ロックを志向していたが、お金をもらって演奏していた箱バンが週二回神戸三宮に出ていて、関西で初めてピザを出したというそのお店で演奏しているマスターがこの人の歌をお得意としていた。

神戸という土地柄長期駐留する外国人が比較的多く、どこよりもいち早くヒットレコードなどが手に入る環境ということもあり、そのお店では ビルボード のトップ 40 に入っているいろんな曲を演奏した。それまでこの系統の歌手と言えばシナトラやアンディ・ウィリアムスとかしか知らなかったが、忘れられないのは同じくアメリカのポピュラー・シンガー、 ペリー・コモ さんだ。どこまでもどこまでも優しく包み込むような伸びのある中低音の歌声、 And I Love You So,It's Impossible は当時のバンドのレパートリーにも入っていてペリー・コモさんはそんな当時の純粋無垢なボクにもモダンにやさしく響いた。

そうして ボクの外国かぶれ遍歴はこの時代 1970 年代初頭のこの頃から始まることになるが、外人の友人が多くなるに連れなぜか正比例してちょっと変な日本的なモノに興味が移っていった(日本びいきの外国人の偏った日本趣味)。よくどこへ行ってもこれが一番好きと押し売りするような人がいるが、未知の楽しさを知らずして同じ志向を優先するような人とはやっぱり大人になっても基本的に話が合わない。

彼らの曲を聞くたびにこの異国情緒たっぷりな街で初めて飲んだジャックダニエルの黒の香りとこれらの想い出とはどうもしっかりリンクしているようだ。

 

 

7月

  こから見ても特徴的な鼻、アクセントして揃えられたあご髭、その風貌から察せられる音楽はまさにその変った印象としっかりリンクしていた。初めて見たのは中学生の頃だかレコード屋に何気にあった2枚組 Mothers of Invention の 1st アルバムジャケットで、写真をミラー加工したサイケデリック仕上げというか当時最大限の写真特殊効果は音も聞いていないのに僕の好奇心をいとも簡単に刺激した。当時2枚組という LP レコードは3000円以上は軽くしていたのだろうか?月々500円程度のお小遣いでは到底買える筈も無く、初めてレコードを買って聞いたのはもう少し後でデビューアルバムからシングルカットされたその曲は演劇的要素でキメの多い楽曲はそれまで聞いていた音楽のどれとも違っていたのだった。

それからずっと経って一人暮らしを始めた頃に第二ハマリ期がやって来た。基本的にオーディションでメンバーを決めるため変拍子のリズムを完璧に演奏出来る人が基準となる。そのためドラマーには逸材を多く輩出している。その時期その時期にそれぞれ特徴があるが、ボク的には ラス・アンダーウッド というマレット叩きのお姉さんとジョージ・デュークのいた頃が一番好きだ。この時期のRoxy&ElsewhereOne Size Fits AllInca Roads はアイデアが凝縮されている傑作だ。そしてなにより京都公演のライブバージョンの入ったBlack Napkinsは極めつけのベスト。現在 Zappa Plays Zappa というプロジェクトで息子のドゥージル・ザッパが見事に再現してくれている。

数えてみるとボクの持っているDVD の中でダントツに多いのは のモノでZappaManiaだったことにハタと気付いた。 

       

 

8月

  減5度の不協音から始まる不気味なイントロに続き、コンクリートをたたき割るようなリズム、ヒステリックなギターフレーズ、これがジミ・ヘン「紫の煙」を初めて聞いたときの印象だ。確かサイケデリック何とかと言うオムニバス LP レコードの中に入っていたと記憶するが、中学校の頃同級生とバンドを始めた頃ベースラインが比較的簡単でサイケ# 9 のコードが思いっきり入っている「フォクシーレディー」を得意気になって良く弾いていたのを思い出す。

彼のレコードに入った曲は全部こじんまりとまとまり整理され収録されていたが、後に映画「ウッドストック」で「星条旗を永遠なれ」を弾いている彼の姿にはぶっ飛んだ。実際に演奏したところを見たのはこれが初めてだったと思うがエレキギターってああいう音が出るんだと気がつき随分マネをしてみたが、三段積みのマーシャルアンプなどは楽器屋さんの陳列棚の中だけのモノ、高価なギター・アンプなんぞは到底買える筈もなく、フィードバックさせるだけの機材は当時の中学生のボクにはファズ・トーンという原音が分からないほど効果がキツいエフェクターで代用し、サイケ・ムードを味わうしかなかった。当然彼のレコードも中学生の経済事情では早々何枚も買える訳ではなかったので、細々と EP 盤を買い求めつつ写真などで知っている割にはレコードを持っていない口の一人だったし、やはりあのワイルドなルックスが購買意欲を邪魔したのは言うまでもない。

折しもこの中学生の頃は丁度グループサウンズブームの真っ盛りでタイガースの「 美しき愛の掟 」や、ザ・オックスの「ダンシングセブンティーン」などを平行してやっていたというかなり変なバンドでもあった。

 

 

 

9月

 オートワウをかけたベースライン、リズミックなクラビネットに、タイトで超ファンキーなドラミングのイントロのこの曲は完全に僕をノックアウトした。

イカシタジャケットの首刈族という名のこのバンドの演奏するカメレオンという曲の中でウネウネした変わったベースラインを弾いているベースプレイヤーはポール・ジャクソンという人物で、にわかにそのサウンドとフレーズに興味が湧いていた。ハービーハンコックというピアノ弾きの名前を知ったのも実はこのヘッドハンターズからで、逆引きでさかのぼりマイルスバンドの音楽を聞き出していた。

この西海岸の新しい音楽の波はベイエリアサウンドと呼ばれ、 Tower of Power など Jazz と R&B 、 Jazz と Latin 音楽を融合した Santana などファンキーなバンドを次々と排出していた。

当時ベースを弾いていた僕の持っていたベースは Greco 製でフロントにプレシジョンのピックアップをリアにジャズベースのピックアップを付け、トグルスイッチで3シーン変えれた変り種だったが、この人の音を聞いて憧れのフェンダー・プレシジョンベースをとうとう後に手に入れてしまった。

このアルバムはジャズファン以外に当時爆発的にヒットしたアルバムで、アナログシンセなど電気楽器を派手に取り入れたこのアルバムは、とうとうハービーも悪魔に魂を売り渡したなど、それまでの熱心なジャズファンからは総好かんを食ったようであったが、お陰でハービーハンコックは幅広いリスナーに知れ渡ることになる。これは Doobies などの P として名前を馳せていたデヴィッド・ルービンソンに出会ったことが多きく影響した。電化バンドシリーズ2作目の Thrust は前作と比べるとポップ色は薄れたがより複雑なリズムのコンビネーション細かなフレーズ、リフを多用し、進化した音作りでフェイバリットの一枚になったのはいうまでもない。以降時代の流れに合わせヒップホップなどを取り入れて行ったが LinnDrumのリズムマシンを使った Rock It あたりから流行を意識し過ぎたやや安易なプロダクションの仕方に僕の関心は次第に薄れていった。

 

10月

久しぶりに見た「 ウッドストック 」に出ていた彼は目がギラギラしていてこの世には恐いものはないといった姿だった。初めて聞いたのは確か最初にヒットした「ブラックマジックウーマン」(実はフリートウッドマックがオリジナル)という曲だったと思う。誰でも少し頑張れば演奏出来るようなそのフレーズは当時沢山の教則本に載っているような気がする。そして日本人向けするメロディックなそれらのフレーズは十分に彼のエッセンスを僕たちに伝えた。

一人暮らしをするようになってコンサートの警備員で間近に見た彼はヒンズー教徒のような白い作務衣を着て香が焚かれ花で埋められたステージでギターを弾いていた。当時西海岸を揺るがしていた東洋思想にドップリとハマっていた彼は スリ・チンモイ というインドの少年教祖の虜になっていたのだ。髪を短く切り、あご髭も剃り、食べ物も肉は食べずにタバコ、薬、お酒は一切飲まずという厳しい宗教戒律を守っていたのだった。その影響でラテン・ロック色の濃かった初期のレパートリーからバンドはコルトレーンやマイルスのようなジャズに影響され1曲が10分もあるような瞑想的なスケールの大きな 演奏スタイル に変っていったが、それでもギターの音色は高級ギターで洗練されたものの、演奏の方も凄く上手くなった訳ではなかったのが当時のボクには滑稽で可笑しかった。(思うにテクニックが向上しないと悟ったら、こういう意表をつく方法でしか打開策を取れなかったのかも知れない)

呼び屋さんの安パイで ベンチャーズ リチャード・クレイダーマン のように毎年夏になるとツアー来日していたような記憶があるが、元々ミックスされた中途半端な音楽はあまり好きではなかったのか歌謡曲のような「哀愁のヨーロッパ」あたりで完全に飽きたボクは知らぬ間にこの手の白衣の人達と決別していた。

今でもボクの好きなのはやっぱり1、2枚目まで、最高パフォーマンスはライブ感溢れるウッドストックの「ソウルサクリファイス」だな。  


11月

骸骨デザインに赤いバラの絵のプリント、タイダイと呼ばれた絞り染めのTシャツを見てピーンと来る人はかなりの事情通だ。丁度70年代に吹き荒れた西海岸のヒッピームーブメントによってこの人達のバンドはスタッフと供に共同生活をし、自分たち専用の(PA)音響装置を持ち歩き、その得た利益も皆で分かち合うという独特な運営スタイルを背景に時流の波に乗った。初期の頃はカントリータッチの曲が多くヒットチャートを賑わすような曲も無かったので日本国内ではそれほど人気がなかったが、アメリカぞっこんだった当時のボクもご多分に漏れず以前から気になっておりシングル盤などを買い漁って情報収集していたのだが、ジミヘンやジャニスと言ったような観客を盛り上げるギミックな派手さは全くなく、意識的に盛り上げるでもなく淡々と即興演奏を自分たちに向かって演奏するスタイルも日本人的にはどうも馴染めなかったようだ。ライブでの即興演奏能力を最大の売りにしているこの人達は、徐々に出始めた電子ドラム、シンセサイザー、サンプリングマシンと言ったテクノロジーを効果的に使った新しいロックシーンや、スタジオミュージシャン達が表に出て来たフュージョン・ミュージックの流れとは裏腹に皮肉にも最高のライブバンドとして本国アメリカでは絶大な人気を博して行くことになる。その演奏はマリファナ文化を背影にサイケデリック、トリップミュージックと呼ばれて、特に興が乗れば1曲の演奏が30分を有に超えるというような演奏パフォーマンスで1公演が7〜8時間に及んだりということはしょっちゅうあったようで、一晩中演奏したりというビジネスを完全に無視したパフォーマンスで熱狂的な信者を増やしていったようだ。実際に彼等はライブの意味について、こう答えている。
「ライブで演奏するっていうのは、曲を完成するために絶対に必要なことなんだ。ひとつの曲が完成するためには、最低2,3年はライブで演奏しなきゃだめなんだ」というその言動からも判るようにアメリカにおいてはデッドヘッドと呼ばれるファンによってその特異なスタイルと供に持てはやされた。
彼等の要素を考えてみると、商業主義や時間軸に捕われず皆を楽しくさせたい(年間40〜140回の演奏活動)、それを実行するには純粋に音、音楽を追求するピュアな気持ち、改善出来る良いものはどんどんチャレンジしてみることが大事である。(ウォール・オブ・サウンド、メイヤーアレンビックをはじめとする新興サウンドシステムの採用)、人生は一期一会、その時しか出来ない音楽をシェアする心(基本的にコンサートの写真撮影、音源録音は自由に許され、その専用スペースも会場内にあったお陰で何千本のライブテープが存在するという)を広めたいという、純粋な図式が表れている。そしてこれらこそがデッドの最大の魅力だったんではなかろうか?

初期の名作EUROPE 72’はよく聞いた。


12月

70〜80年代のロックシーンでポストパンク後、ポップなアメリリカンヘビーメタルバンドの時代が続いたが80年代後半の混沌んとしたロック界にあって彗星のごとく現れたのがシアトルを中心に広まっていったグランジ・ロックと呼ばれたロックのスタイルだ。
このバンドを初めて聞いたのは学生時代から面倒を見ていたバンドのレコーディングの時にメンバーがこういう風にやりたいと言って持って来たCDの中に入っていたと思う。
ヒットしたこの曲はこのバンドの良さをあまねく凝縮して表現していて、それまで聞いた事もない熱いがどこかクールな不協和音を使ったイカしたイントロにカッコいいタイトなドラミングはいっぺんにボクを脳みそをノックアウトしたのだったw。
1994年春、明石だったかどっかの現場へ行く途中、現場入り時間に遅れそうで急いで車で走っている中、カー・ラジオからカート・コバーン猟銃自殺のニュース(享年27才)を聞いた。
彼の魂はアチコチあらゆるジャンルで今でも息づいている。

そしてこの人達も彼等のスピリットを自分たちのフォーマットで表現している。

 

 

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